その夜、私の中で何かが壊れ始めた

【その夜、私の中で何かが壊れ始めた】

その日、彼が仕事から帰ってきたときも、私は何も知らないふりをして、いつも通りにふるまいました。笑顔で「おかえり」と言って、普段と変わらない口調で「ご飯できてるよ」と声をかけた。もちろん、心の中は全然穏やかじゃなかった。でも私には、“演じる理由”がありました。真実を確かめるため。そして、確かな証拠を掴むため。ふたりで食卓を囲み、なんてことのない会話をして。テレビをぼんやりと見ながら、他愛ないやりとりを交わす。お風呂も順番に入り、それぞれいつも通りの流れ。彼が寝室に入ったとき、私はこっそり深呼吸をした。彼の隣に寝転がり、天井を見つめながら必死に気持ちを落ち着けようとする。でも、頭の中から“あの髪の毛”が離れない。あの一本が、すべての始まりだった。彼の寝息が静かに聞こえてきた。深夜2時半。私は、そっとベッドを抜け出した。足音を殺しながらリビングへ向かい、彼のスマホを手に取る。手が震える。喉がカラカラで、指先は冷たい。顔認証。彼の寝顔をスマホにかざすと、解除成功。心臓がドクンと跳ねる。LINEを開く。そこには、何人かの女性とのトーク履歴があった。「まあ、彼は管理職だし、部下の看護師と連絡取るのは仕方ない」そう自分に言い聞かせながら、一人ずつ丁寧にスクロールして確認していく。1番目の女性。業務連絡のみ。2番目の女性。こちらも仕事の話ばかり。少しホッとする。でも、3番目の名前で手が止まった。加奈子。一見、やり取りのほとんどは仕事の内容。でも、その間にいくつか違和感のあるメッセージが混じっていた。旦那:「ついたよ!いつものところ!」女:「今日はありがとう♡」…「いつものところ?」仕事の連絡にこんな軽いノリ、必要ある?さらにスクロールすると、確信に変わるやり取りが出てきた。加奈子:「今日ひとり?ひとりでやっちゃダメだよ?私と会うときまで精子溜めておいて?」旦那:「我慢できない。今から会える?」――何これ。読んだ瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。頭が真っ白になる。でも不思議と、涙は出なかった。代わりに、私は笑った。狂ったように、声を殺して、ソファにうずくまりながら笑い続けた。「やっぱり……そうだったんだ」怒りでも悲しみでもない。ただ、感じていた違和感が現実になったことへの、どうしようもない混乱。そして、どこかで「これで終わらせられる」という奇妙な安堵。あんなに焦って、必死にレスを改善しようと努力していた時間。妊活のことを一人で考えていた時間。彼の言葉を信じた時間。全部、無駄だったんだ。そう思ったら、不思議と少し楽になった気がした。私は、トーク画面を次々とスクリーンショットに収めていった。手が震えながらも、確実に、ひとつずつ。そして、スマホを元の位置に戻し、まるで何事もなかったかのように静かにリビングを離れた。でも、もう眠れるはずもなかった。私はすぐにスマホを手に取り、探偵事務所を検索し始めた。「浮気調査」「証拠」「慰謝料」そんなワードを次々に打ち込んで、口コミを読み漁る。画面の光を睨みつけるように見つめる私の目は、きっとギラギラと光っていたと思う。冷静だけど、興奮していた。目が冴えて、アドレナリンが止まらない。その夜、私は一睡もできなかった。でも、眠れなくてもよかった。なぜなら、ついに「現実」が動き出したから。

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